田中城つくってみた!②田中城◆ところ 静岡県藤枝市◆城主 由井美作守(今川氏)、山県昌景(武田氏)、依田信蕃(武田氏)、高力清長(徳川氏) など◆参考資料 復元体系日本の城、日本城郭体系、歴史群像、田中城跡散策ガイドほか静岡県藤枝市にある田中城は始め今川氏、その後に武田氏、徳川氏が支配することとなりました。田中城は遠江国諏訪原城、高天神城、久能城、持船城などを結ぶ城郭ネットワークの一環として武田氏の駿河支配のための重要な位置を占め、徳川氏と武田氏の間で攻防が行われました。天正7年(1579年)から依田信蕃が在番となり、よく徳川氏の攻撃をしのぎましたが、天正10年(1582年)2月織田、徳川、北条氏が連携して武田領国への進撃を開始し3月1日ついに田中城は開城しました。田中城の特徴は、みてわかる通り本曲輪、二の曲輪、三の曲輪という三つの曲輪を同心円状に展開されており、その円を重ねた縄張りから注目されています。武田時代には亀の甲羅を想像させたのか亀城あるいは亀甲城とも呼ば...2018.10.14 01:33
田中城に行ってみた!静岡県藤枝市にある田中城は始め今川氏、その後に武田氏が支配し、徳川氏と武田氏が攻防を繰り返す事となりました。田中城は遠江国諏訪原城、高天神城、久能城、持船城などを結ぶ城郭ネットワークの一環として重要な位置を占めていました。天正7年(1579年)から依田信蕃が在番となり、よく徳川氏の攻撃をしのぎましたが、天正10年(1582年)2月織田、徳川、北条氏が連携して武田領国への進撃を開始し3月1日ついに田中城は開城しました。現在では小学校や住宅となり城は残っていませんが道路の形状は城の縄張りの名残を残しています。また、堀や土塁の一部は現在でも見ることができます。田中城◆ところ 静岡県藤枝市◆城主 由井美作守(今川氏)、山県昌景(武田氏)、依田信蕃(武田氏)、高力清長(徳川氏)2018.09.17 11:27
三河足助城(真弓山城)行ってみた!愛知県にある足助城は、発掘調査に基づき戦国時代の標高310mの山城を復元したもので、高櫓、長屋、物見矢倉、厨(くりや)などが復元されているのが特徴です。戦国時代には足助鈴木氏が支配し、勢力を拡大した徳川家康に従った。位置的に三河の信濃寄りであり、武田氏との争いが始まってからは最前線となり緊張感が高まりました。元亀2年の武田信玄の三河乱入で足助城は武田方の城となりましたが、同年4年には家康の長男信康が足助城を攻め武田勢を追い払い徳川方の城となり、家康の関東入国により廃城となりました。足助城(真弓山城)◆ところ 愛知県豊田市足助町須沢39-2◆規模 240m×100m、標高310m、比高170mー◆城主 鈴木氏2018.09.17 00:10
保々西城つくってみた!④完成保々西城 ◆ところ 三重県四日市市西村町字城下 *目印は北勢中央公園の野球場です。バックネットから歩いて入っていきます。 ◆規模 250×310m、標高60m、比高20m ◆城主 朝倉氏 ◆参考図書 日本城郭体系、再発見・北伊勢国の城、三重の中世城館 保々西城は東、西、南を崖に囲まれた半島状台地の先端部にあり、弱点となる北側に空堀・土塁を設置し守りを固めている。また、北側の大手口から、主郭に至る間には、高さ1m前後の低い土塁で区画された一辺が30から40mの方形の家臣らの屋敷と思われる遺構が並ぶ。 私がこの保々西城の気に入ったところは、家臣の屋敷と思われる区画が主郭の周りに配置されており、その遺構が今もきれいの残っているところです。また主郭も思ったよりも大きな堀と土塁に囲まれ、2か所の虎口も、東虎口は内桝形を形成しながら虎口に至る土橋には主郭の張り出した土塁か...2018.06.27 03:33
保々西城つくってみた!②縄張り 保々西城の特徴である家臣の屋敷と主郭の二つの虎口、周囲三方向の断崖に注意して形を作って見ました。 実は、この保々西城は、昨年の11月頃には今の形でできていましたが、やっと掲載することができました。 なかなか、移り気で一つのお城だけ作り続けることができず、浮気して行くつかのお城を並行して作っていますが、2、3月が体調不良で製作ができない状況でしたが、やっと保々西城を本腰を入れて作っていこうと思います。 すぐに脱線して作りかけの大給城も作りたくなってしまいますが・・・。2018.03.24 02:50
保々西城つくってみた!①現地調査保々西城◆ところ 三重県四日市市西村町字城下◆規模 250×310m、標高60m、比高20m◆城主 朝倉氏◆参考図書 日本城郭体系、再発見・北伊勢国の城、三重の中世城館 保々西城は東、西、南を崖に囲まれた半島状台地の先端部にあり、弱点となる北側に空堀・土塁を設置し守りを固めている。また、北側の大手口から、主郭に至る間には、高さ1m前後の低い土塁で区画された一辺が30から40mの方形の家臣らの屋敷と思われる遺構が並ぶ。 私がこの保々西城の気に入ったところは、家臣の屋敷と思われる区画が主郭の周りに配置されており、その遺構が今もきれいの残っているところです。また主郭も思ったよりも大きな堀と土塁に囲まれ、2か所の虎口も、東虎口は内桝形を形成しながら虎口に至る土橋には主郭の張り出した土塁から横矢がかけられるように工夫がされ、北虎口は土橋から入ったところで食い違い虎口となっているなどなかなか興味がわくつくりとなっています。 朝倉4代の城といわれたいますが、永禄11年(1...2018.03.24 01:36
野田城つくってみた!⑤完成 野田城が完成しました。 思ったよりも良い感じにできました。自分的には満足しています。途中で、両側の淵の水や沼地の水表現のレジンで失敗しましたが何とか水らしくできました。自分的には端っこに少し植栽した木が気に入っています。 川をせき止めて作ったといわれる龍渕、桑渕に挟まれた舌状台地に作られた三丸、二丸、本丸の攻めにくい立地が表現できたと思います。また、本丸から二丸への土橋へ向け張り出し部分が設けられ、横矢が掛けられるつくりになっているところが面白いとおもいます。2018.02.03 04:03
野田城つくってみた!③堀堀に水を張りました。川をせき止めて作った堀ができだいぶ攻めにくい城となりました。今回も水表現に手こずっています。レジンで作りましたが、泡が出て大失敗し、一部剥がしてリアリスティックウオーターで作り直しました。これからもきっと失敗しながら経験を積んで行くしかないのでしょうが、あと何回失敗すれば思い通りのものができることやら・・・。2017.12.31 11:03
野田城つくってみた!②縄張りとりあえず野田城の縄なりを作りました。現地調査では本丸以外は竹林と雑木林で見ることができませんでしたが、絵図等を元に現地と合わせながら作成しました。困ったのは、本丸南の侍屋敷ですが、浅野文庫絵図、菅沼家譜、元禄時代野田城跡図では概ね似たような形でしたので、主に元禄を元に作成しました(元禄時代野田城跡図では屋敷も描かれており疑問点もおおいですが・・・)。野田城の両側を川と崖に囲まれた縄張りは面白くて好きです。作っていると、絵図の疑問点が噴出してきますが・・。2017.12.30 07:30