もる

静岡県の諏訪原城の丸馬出しと三日月堀に魅せられて、特徴のある土のお城のジオラマを自作しています。

記事一覧(31)

田中城つくってみた!②

田中城◆ところ  静岡県藤枝市◆城主 由井美作守(今川氏)、山県昌景(武田氏)、依田信蕃(武田氏)、高力清長(徳川氏) など◆参考資料  復元体系日本の城、日本城郭体系、歴史群像、田中城跡散策ガイドほか静岡県藤枝市にある田中城は始め今川氏、その後に武田氏、徳川氏が支配することとなりました。田中城は遠江国諏訪原城、高天神城、久能城、持船城などを結ぶ城郭ネットワークの一環として武田氏の駿河支配のための重要な位置を占め、徳川氏と武田氏の間で攻防が行われました。天正7年(1579年)から依田信蕃が在番となり、よく徳川氏の攻撃をしのぎましたが、天正10年(1582年)2月織田、徳川、北条氏が連携して武田領国への進撃を開始し3月1日ついに田中城は開城しました。田中城の特徴は、みてわかる通り本曲輪、二の曲輪、三の曲輪という三つの曲輪を同心円状に展開されており、その円を重ねた縄張りから注目されています。武田時代には亀の甲羅を想像させたのか亀城あるいは亀甲城とも呼ばれたと言います。また、現在では平野に位置しているとみられる田中城も、戦国期には瀬戸川の下流に位置し湿地帯に囲まれた中の道路が交差する地形に築かれ、田中城は微高地にもかかわらず、湿地帯が天然の障壁となり敵が包囲することを容易に許さないお城であったようです。 武田氏により築かれたと言われる丸馬出しと三日月堀もこの城の大きな特徴です。現在では小学校や住宅となり城は残っていませんが道路の形状は城の縄張りの名残を残しています。また、堀や土塁の一部は現在でも見ることができます。綺麗に縄張りが残っていれば名所となっていたことでしょう!残念ですね。

保々西城つくってみた!④完成

保々西城 ◆ところ 三重県四日市市西村町字城下
*目印は北勢中央公園の野球場です。バックネットから歩いて入っていきます。 ◆規模 250×310m、標高60m、比高20m ◆城主 朝倉氏 ◆参考図書 日本城郭体系、再発見・北伊勢国の城、三重の中世城館   保々西城は東、西、南を崖に囲まれた半島状台地の先端部にあり、弱点となる北側に空堀・土塁を設置し守りを固めている。また、北側の大手口から、主郭に至る間には、高さ1m前後の低い土塁で区画された一辺が30から40mの方形の家臣らの屋敷と思われる遺構が並ぶ。  私がこの保々西城の気に入ったところは、家臣の屋敷と思われる区画が主郭の周りに配置されており、その遺構が今もきれいの残っているところです。また主郭も思ったよりも大きな堀と土塁に囲まれ、2か所の虎口も、東虎口は内桝形を形成しながら虎口に至る土橋には主郭の張り出した土塁から横矢がかけられるように工夫がされ、北虎口は土橋から入ったところで食い違い虎口となっているなどなかなか興味がわくつくりとなっています。  朝倉4代の城といわれたいますが、永禄11年(1568年)織田信長の北伊勢侵攻により、滝川一益の攻撃を受け落城し朝倉氏は滅亡しました。
  作ってみた感想は、全体を通しても横矢が掛けられるようによく考えられた構造で、塀を作ってみると攻撃側はありとあらゆるところで塀に囲まれた中を進まざるを得ず、改めて攻撃しづらいお城であると感じました。塀を作る前は、簡単に主郭まで攻め落とされそうなイメージを持っていましたが、塀を作ると感じがガラッと変わりました。

保々西城つくってみた!①現地調査

保々西城◆ところ  三重県四日市市西村町字城下◆規模   250×310m、標高60m、比高20m◆城主   朝倉氏◆参考図書 日本城郭体系、再発見・北伊勢国の城、三重の中世城館 保々西城は東、西、南を崖に囲まれた半島状台地の先端部にあり、弱点となる北側に空堀・土塁を設置し守りを固めている。また、北側の大手口から、主郭に至る間には、高さ1m前後の低い土塁で区画された一辺が30から40mの方形の家臣らの屋敷と思われる遺構が並ぶ。 私がこの保々西城の気に入ったところは、家臣の屋敷と思われる区画が主郭の周りに配置されており、その遺構が今もきれいの残っているところです。また主郭も思ったよりも大きな堀と土塁に囲まれ、2か所の虎口も、東虎口は内桝形を形成しながら虎口に至る土橋には主郭の張り出した土塁から横矢がかけられるように工夫がされ、北虎口は土橋から入ったところで食い違い虎口となっているなどなかなか興味がわくつくりとなっています。 朝倉4代の城といわれたいますが、永禄11年(1568年)織田信長の北伊勢侵攻により、滝川一益の攻撃を受け落城し朝倉氏は滅亡しました。 戦いでは北側の堀と土塁、家臣屋敷はあっという間に破られて、主郭での攻防になったのでしょうか?いろいろと縄張り図を見て想像して楽しんでいます。