古宮城つくってみた

 愛知県新城市作手清武にある古宮城(ふるみやじょう)をつくってみた。

 この城は、元亀2年(1571年)に武田信玄が馬場信春に命じて築城させたといわれている。武田氏の奥三河侵攻により造られた最前線の城で、徳川家康の岡崎城にも近く大いに圧力を受けていたと考えますが、天正3年(1575年)の長篠の戦いの敗北で武田勝頼の勢力が弱まると古宮城は廃城となた可能性が高いといわれている。 


 古宮城は、西側が三河と信州をつなぐ作手街道をおさえ、東と南北の3方は湿地帯に囲まれた城で、この城の特徴は、3方を湿地に囲まれ、攻め口を一方の西側に限定しているという、武田氏の諏訪原城、小山城、大島城などとも共通する縄張りとなっています。また、小高い城の中心の東西を大切堀で2分割し、西側から攻められた場合西側(二ノ曲輪)が攻め落とされた場合も、大切堀により東側の主郭は大切堀により守られる構造になっています。

 主な攻城口は西側の作手街道からとなりますが、西側には堀、射撃陣地となる標高差を利用した曲輪や土塁で何重にも守られています。また、西側の堀を渡り攻めあがると2重にもうけられた桝形虎口により守られ、攻め手には多くの犠牲を強いたことでしょう。この、虎口を抜け頂上の二ノ曲輪を攻め落としたとしても、主郭とは大切堀で隔てられ、主郭を落とすまでには、さらなる犠牲が必要となることでしょう。


 北から城を望む。右側から二ノ曲輪、大切堀、主郭となり、主郭は巨大な大切堀に守られていることがわかる。かなり深い堀です。


 西側から城を望む。手前に作手街道、二の曲輪、主郭となる。作手街道には関所を設けてみました。下側の緑地は山となり、作手街道が古宮城と山に挟まれた狭いところを通っていたことがわかります。

 また、城の左部分には連続する多重横堀があり、主戦場となる西側からの侵入を妨げています。

 東から城を望む。城の3方は湿地であったとのことであり、こちらは、西側に比べつと、土塁が少ないように思います。


 南から城を望む。左側が作手街道となり、写真の左下に二重桝形虎口が設置され、防御力を高めている。


 


お城つくってみた! 難攻不落の城

お城の縄張りが面白い土の城(土塁)を中心にお城のジオラマを自作しています。

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