愛知県新城市の野田城制作のため、現地を訪れました。
野田城は1573年に武田信玄の西上作戦の折に遠江の三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝後に武田方は三河の徳川方の野田城を包囲し、甲斐の金山堀衆が穴を掘り水脈を切り井戸を枯らせ水を断ち降伏させたと言われています。
調査は縄張り図ではわからない各曲輪の高低差確認や雰囲気を味わうためです。
お城は、北西から南東にかけて三の丸、二の丸、本丸が直線的に並び、両側を川が流れています。当時は、川をせき止め幅広くさせ堀の役目をさせていたそうです。
現地はお城の西側が道路によって原型がなくなっていたほか、本丸以外は竹木や草により調査不能でした。残念です。現地に赴き思ったことは、三の丸敵正面が思ったより長く、防御上大丈夫かと思いましたが、調べてみると、西側は埋め立てられたとのことで、実際はもっと狭かったようです。
また本丸南東には侍屋敷があったとのことですが、古地図や縄張り図、地理院地図(写真も)の新旧を見比べてもよくわかりませんでした。
今、野田城を作り始めましたが、この結果を反映して作って行きます。
二の丸から本丸への土橋
北西から奥に三の丸、二の丸、本丸
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