保々西城
◆ところ 三重県四日市市西村町字城下 *目印は北勢中央公園の野球場です。バックネットから歩いて入っていきます。
◆規模 250×310m、標高60m、比高20m
◆城主 朝倉氏
◆参考図書 日本城郭体系、再発見・北伊勢国の城、三重の中世城館
保々西城は東、西、南を崖に囲まれた半島状台地の先端部にあり、弱点となる北側に空堀・土塁を設置し守りを固めている。また、北側の大手口から、主郭に至る間には、高さ1m前後の低い土塁で区画された一辺が30から40mの方形の家臣らの屋敷と思われる遺構が並ぶ。
私がこの保々西城の気に入ったところは、家臣の屋敷と思われる区画が主郭の周りに配置されており、その遺構が今もきれいの残っているところです。また主郭も思ったよりも大きな堀と土塁に囲まれ、2か所の虎口も、東虎口は内桝形を形成しながら虎口に至る土橋には主郭の張り出した土塁から横矢がかけられるように工夫がされ、北虎口は土橋から入ったところで食い違い虎口となっているなどなかなか興味がわくつくりとなっています。
朝倉4代の城といわれたいますが、永禄11年(1568年)織田信長の北伊勢侵攻により、滝川一益の攻撃を受け落城し朝倉氏は滅亡しました。
作ってみた感想は、全体を通しても横矢が掛けられるようによく考えられた構造で、塀を作ってみると攻撃側はありとあらゆるところで塀に囲まれた中を進まざるを得ず、改めて攻撃しづらいお城であると感じました。塀を作る前は、簡単に主郭まで攻め落とされそうなイメージを持っていましたが、塀を作ると感じがガラッと変わりました。
南東からの攻撃では、桝形虎口の連続で四方からの雨あられの中を受けながら奥に進むと、深い堀に守られた主郭に突き当たります。主郭には、北・東の二か所の虎口があり、東虎口(写真の主郭下側の虎口)は屏風折がよく発達し、土橋に対しても西・南からの横矢がかけられる構造となっていて、多くの兵が犠牲になったのではないでしょうか。惚れ惚れする虎口です。
唯一の平面である北からの攻撃想定(勝手な想像です)です。写真左下に大手口があり、堀による防御と横矢がかけられる構造となっています。また、方形郭の家臣団屋敷(と思われる?)が配置され、一番奥に深い空堀に囲まれた50m×50mの主郭が配置されています。織田軍は家臣屋敷に囲まれ四方からの攻撃に被害を出しながら路地を進むことになったのでしょう。
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